戦前/戦中の絵葉書の画像をネット販売しています

コレクションについて

江戸の名残があった時代の東京を中心に、静岡等の絵はがきを含めコレクションしています。なかには、戦災で消失した今では見られない貴重な場所のも写真もあります。

当時の人たちの装束や持ち物、路面電車や自動車といった乗りものに時代を感じ取っていただけたら幸いです。

各写真から読み取れる情報もコメントしてあります。


各コレクションの説明(写真左から右に)


1)東京芝増上寺の山門(三解脱門) 大正7年以降の写真

上野寛永寺と並ぶ、徳川将軍家の菩提寺の戦災を逃れ今も現存する高さ21mの大きな門で、慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物であり、国の重要文化財指定を受けています。

門脇に停められた人力車や笠をかぶって乳母車を押す男性など、時代を感じさせます。路面電車のパンタグラフの形状から、戦前のものだと鉄ちゃんに教えてもらいました。

 

2)東京芝増上寺の徳川の奥方たちの霊廟「(御裏方様)御霊屋外観

江戸時代築の霊廟で、当時は国宝に指定され、「芝山内御霊屋」とも呼ばれていたようですが、東京大空襲で消失し、再建はされていないため、とても貴重な映像です。。

 

3)お茶の水のニコライ堂

ギリシャ正教とも呼ばれる正教会の教会で、「東京復活大聖堂教会」が正式名です。主イイスス=ハリストス(イエス=キリストのギリシャ語読み)の復活を記憶する聖堂ですが、ロシアから正教伝道のために来日し日本に骨を埋められた亜使徒聖ニコライ(1836-1912)がその建立にあたったことから「ニコライ堂」と呼ばれています。
大正12(1923)年の関東大震災で甚大な被害を被ったものの、聖ニコライの後継者であるセルギイ府主教と信徒達の努力により、1929年、一部外観と内装に変更を加えた上で再建されました。

創建当時はここの最上階が一帯で最も高いところで、見晴らしがよかったそうです。「ぶらタモリ」でタモさんが特別に登らせてもらってましたね。通常は登れませんのであしからず。

 

4、5)東京高輪の泉岳寺の山門と、浅野内匠頭と奥方ゆかりの梅

赤穂義士の墓で有名な寺。ともに絵はがきの体裁から、明治40年〜大正7年のあいだのものと分かります。

この山門は現存しますが、周囲にこのような大樹はありません。

5は、義士の墓に通じる道沿いにある、瑶池梅(ようちばい)」と名づけられた梅の木で、浅野内匠頭の奥方・瑶泉院が義士の墓守りをした妙梅尼に与えた鉢植の梅をこの地におろしたものと伝わっています。

この木は今も例年花を咲かせ、横には長矩が切腹の際、介錯の血が飛び散ったと言われる「血染めの庭石」と「血染めの梅の木」が、さらに「大石主税」が切腹した大名家の庭の梅の木も移されています。

 

6)東京丸の内 馬場先通り

葉書の表面から明治40年以前で、景色から関東大人災前のものと分かり、消印の「14」から、明治14年と推測しています。

当時、このあたりの土地は三菱の所有で、バックに並ぶ赤レンガの建物は、当時「一 丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれ、岩崎弥太郎が買い占めた一帯、丸の内 2 丁目の三菱ビル群です。

路面電車に荷台が木製のトラック、自動車のホイール、大八車に自転車・・・どれも時代を感じます。

 

7)東京神田須田町の万世橋駅前

葉書の表面から明治40年以前のもの。

東京駅と同じ辰野金吾の設計による赤煉瓦の駅舎は関東大震災で消失。東京駅と見間違うほど雰囲気が似ているもの道理です。

広場の銅像は日露戦争の「杉野はいずこ、杉野はいずや」の広瀬中佐と杉野隊員。戦後の昭和22年にGHQの指示で銅像は撤去されました。

秋葉原に近いこの場所には、近年まで交通博物館がありましたね。僕も小学校の修学旅行で行きました。建物の地下には当時の駅の通路や階段が残っていて、今はカフェになっています。

 

8)栃木県金丸原の陸軍演習場

マニアは軍装と銃に注目!

当時の国内で訓練中の兵隊さんが、故郷に便りを送るのによくこのタイプが使われました。

葉書の表書きが、まだ carte postaleとフランス語があるので、戦前のものでしょう。

 

9)大正4年の代々木練兵場での大礼観兵式

大日本帝国陸軍の代々木練兵場は、今の代々木公園内にありました。この近辺には2・26事件慰霊碑など、軍隊や戦争を物語る碑が多くあります。

この観兵式では、当時のハイテク乗り物・飛行船も公園の上空を飛びました。その写真を見たことがあります。

丸枠内の人物は、伏見宮貞愛親王です。この判明までに1週間費やしてしまいました。

 

10)東京 浅草 浅草寺の本堂前

空襲で消失する前の写真で、葉書の表面から明治40年以前の撮影。

1649年(慶安2年)に徳川家光の寄進によって仁王門・五重塔とともに建立された本堂は当時、国宝指定でした。

今のものは、昭和33年に鉄筋コンクリートで再建されています。

和装にカンカン帽、そして靴のおじさんのファッションに注目!いい味出してます。

 

11)東京 九段 靖国神社の大灯籠

太平洋戦争開戦間もない昭和17年の写真です。

昭和10年に富國徴兵保険(現在の富国生命)が奉納した日本一の大灯籠で、右側に旧海軍、左側に旧陸軍の戦闘場面がレリーフで描かれています。このように富国さんは陸海両軍に配慮したわけです。

ところで戦後、あの戦争色を徹底排除したGHQが、このレリーフの取り外しをさせなかったのが不思議です。

後ろには大鳥居(第二鳥居前)も見えます。

なお、この灯籠も鳥居も現存しています。

 

12)深川八幡宮と月島商船学校

深川八幡宮は別名「富岡八幡宮」とも呼ばれ、江戸最大の八幡様です。

見ればこの三の鳥居は素木鳥居で木製ですね。ところが今は石造りの反り返った形で、おそらく神明鳥居です。まさか建て替えで間違えた?不思議です。

月島商船大学は明治30〜33年にあった学校で、越中島にある現・東京商船大学。船は練習船「月島丸」と推測され、明治33年に駿河湾で沈没しています。

 

13)東京大正博覧会 第2会場

大正3年に催された博覧会です。

ここは上野会場の第1会場のようです。

背広姿の紳士がいたかと思えば、庶民の子どももいますね。

 

14〜16)戦前の東京駅

14と15は、絵はがきの体裁から大正7年3月まで、16は大正7年4月以降のもの。13と14には人力車が数多く客待ちをしています。15には数少ないながらタクシーも確認できます。16に写っているカンカン帽にサングラス風の格好で闊歩するおじさん、モダンです。

東京駅は大正3年に完成した建物で、辰野金吾と葛西萬司が設計しました。1945年の空襲で、レンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が焼失。終戦の年の年末から昭和22年にかけて修復工事が行われ、3つのドーム部分の外壁は修復しましたが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。その3階部分も、2012年にやっと復元されましたね。この近くの大手町の鉄道ガードに、明治時代のレンガや鉄柱が残っています。個人的にはそこも好きです。

 

17)日本橋

「帝都物語」の麒麟でも有名なお江戸日本橋で、今も現役のこの19代目の橋は、1911(明治44)年4月3日に架けられた石造二連アーチ橋。現在も東京大空襲での焼夷弾跡(焼け跡)が残っています。絵はがきの体裁から、大正7年3月までのもの。三越が見えないことから、おそらく運河の川下を向いて撮影しているものと推測。

橋の上を都電が走り、アーチの下には、手こぎ船が確認できます。戦後のピーク時には、この橋の上を7路線の市電(都電)が走っていました。右側に見えるレンガの建物は、江戸時代初期から続いた白木屋(しろきや)呉服店でしょうか。後に東急百貨店となって、1999年に閉店し、今は「コレド日本橋」になっています。近くには、江戸時代から続く飴の榮太樓總本鋪がまだありますね。江戸時代この橋の南詰西側は高札場で、南詰東側は罪人の晒し場でした。なお、近くの老舗漆器店の黒田屋さんには、江戸初期の木造橋当時の疑宝珠が残されています。

 

18)皇居の正門石橋

「二重橋」だと誤認されることが非常に多く、やはりこの絵はがきでも間違えていて、正しくはこの石橋の奥にある今は黒っぽい正門鉄橋が「二重橋」です。この石橋は、江戸城の西丸大手橋があった位置にあり、現在の石橋は明治20(1887)年の建造で、二重アーチ構造であることから「眼鏡橋」とも呼ばれています。なお、左端の西丸大手門(櫓門)は現存しますが、その手前の石垣の出っ張りの角にはかつて高麗門がありました。

ここで東京観光記念の写真を撮るのが定番で、小学3年で初めてはとバスに乗り、ここで記念撮影したのを覚えています。

 

19)参謀本部

明治14年完成の庁舎で、参謀本部は陸軍の作戦立案などをする陸軍の中枢機関のひとつ。時代を象徴するように、像の脇に大砲2門が見えますね。

当初は向かって左の建物(旧館)がカッペレッティの設計によりにより西南戦争後に建設に着手。参謀本部として供用されていたが、明治27年の明治東京地震で若干の被害を蒙った。これを受け、明治31年に参謀本部の機能は北側(向かって右)の建物(新館)に移転し、この写真の撮影時期(明治末期)には、発足当初一部を間借りしていた陸地測量部と参謀本部第四部戦史室が全面的に占用するようになりました。また、2.26事件では、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸とともに、ここが占拠されました。

この地は、彦根藩井伊家上屋敷跡三宅坂一帯(現在は、憲政記念館等が立地する国会前庭)で、陸軍省等とともにここが置かれました。後の1941(昭和16)年12月 - 8日から15日にかけて、陸軍省、教育総監部、陸軍航空総監部とともに、ここ三宅坂一帯から市ヶ谷台の陸軍士官学校跡地(現在、防衛省が所在)に移転しましたが、建物は空襲で焼失。
なお、建物の前にある銅像は、有栖川宮熾仁親王殿下の像で、幕末には東征大総督として官軍の総大将となりました。この銅像は現在、有栖川宮邸があった地の有栖川宮記念公園に移されています。

 

20)赤坂御所

赤坂御用地のこと。この建物は、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)で、近年、国の指定文化財になったことでも知られます。

かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、明治42(1909)年に東宮御所(後に赤坂離宮に)として建設されたもので、当時日本の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設した日本における唯一のネオ・バロック様式の西洋風宮殿建築とされます。戦後、昭和43(1968)年よりが行われ、昭和49(1974)年に竣工しました。
現在のものと見比べると、屋根や屋根の上の飾りなどが異なっているのが、改修によるものだと分かります。

 

21)乃木希典大将と奥方の墓

明治時代の軍人で、東郷平八郎ととともに日露戦争勝利で国民的英雄となった乃木希典と、その奥方の墓。

明治天皇の崩御に際し、夫妻で殉死しました。

青山墓地の最も北東のエリアにあります。赤坂高校前の細い道路から南側の墓地内に進むと、乃木将軍のお墓の石柱があり、墓は低い塀で囲まれています。

なお、この近くの乃木神社が殉死した場所で、命を絶った慎ましやかな屋敷も残されています。僕の祖父も、大正初期に、この近くでの農業研修のために上京した際、慰霊にここを訪れています。

 

22)明治神宮 宝物殿

宝物殿は明治神宮境内の北方に位置し、明治神宮が創建された翌年の大正10(1621)年10月末に竣工されました。奈良の正倉院の校倉造りを模した校倉風大床造りで、我が国初期の鉄筋コンクリート建築の代表的な建物です。各部には巧みに和洋折衷を試みた花崗石張の堅牢優美な建物で、国の重要文化財に指定。
殿内には明治天皇が日常使用された机・文房具・愛読書・荘厳なしつらえと絢爛な装飾の六頭曳儀装車、調度品などが陳列されています。

 

23)東銀座(築地)の東劇 昭和7年頃

東京劇場は通称「東劇」で、松竹の直営劇場の1つとして、1930年に開館しました。6代目 尾上菊五郎と15代目 市村羽左衛門、6代目 尾上梅幸の3大役者がこけら落とし興行を飾り、歌舞伎や軽演劇が上演されていました。歌舞伎座が空襲で焼亡し、1951年(昭和26年)に再建されるまでは、東京の歌舞伎の中心でした。

1975年に、今の高層ビルに改築され、映画館となっています。3階まで伸びる長いエスカレーターを上がると、全面ガラス張りのエントランスに繋がり、ロビー・天井の照明から降り注ぐ光がガラスに反射し、かつての老舗劇場の風格を漂わせています。今は向かいの松竹セントラルが閉館し、この劇場も大作のロードショー上映から遠ざかっているのは、昔からの映画ファンとしては寂しい限りです。

 

 24)国会議事堂

昭和7年頃の新築中の写真で、昭和11年(1936年)に帝国議会議事堂として竣工します。当時は、東京市中の至る所からこの大理石の建物を仰ぎ見ることができたそうです。感性当時は、国内で最も高い近代建造物で、初代ゴジラの身長50mも、この高さを基準に設定されました。

この付近には、総理大臣官舎、陸軍省、参謀本部もありました。

終戦前後の何年間かは、食糧難のため国会議事堂の周囲も、イモやカボチャの畑になっていたのは有名な話ですね。

 

25)富士山と山中湖

明治40年4月から大正7年3月の間の写真です。稜線は今も変わりませんが、湖畔が今ほど開発されていないのが良く分かります。この湖畔で、大学時代に先輩たちが屋外麻雀したっけ。

 

26)久能山東照宮の家康の墓

家康が最初に葬られた地にある参墓で、日光や東京の増上寺などにもある馴染みのある形状の宝塔です。

埋葬当初は、小さな祠があるだけだったようですが、家康を崇拝していた3代将軍家光が、高さ5.5m、周囲8mの立派な墓所にしました。

久能山と日光山のどちらの東照宮に実際の家康の御遺骸が御安置されているのか、については諸説あります。天海僧正によれば、その遺言は「私が臨終となったら身体は久能山へ納め、葬儀は増上寺にさせて、位牌は三河の大樹寺にたてなさい。一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧請しなさい。関八州(関東)を見守るから」だったとされます。

 

27)身延山 奥の院

日蓮宗総本山の身延山久遠寺の奥の院の仁王門の前で、今はロープウエイで登れますね。

この本院本堂前の仁王門(二天門)を移転したものです。六浦平次郎入道の建立で、天和年間31世日脱上人代に本堂域から移転されました。仁王像は31世日脱上人の開眼。

今とは、石段が異なっていて、今の石段は昭和45年、佐藤玄守別当代に造営されたもの。

今日でも蓮聖人お手植杉は同じ佇まいです。日蓮聖人父妙日・母妙蓮、御師道善坊の追善のために日蓮聖人が植えられたものと伝えられ、身延町指定文化財(天然記念物)。

 

28) 遠州奥山の半僧坊(半僧坊大権現)開山聖鑑国師 御廟

臨済宗方広寺派の大本山、方広寺の通称で、東海地方を代表する禅寺。国指定重要文化財で元禄3年に水戸光圀の命により修復された釈迦三尊像や七尊菩薩堂等があります。半僧坊大権現は火防の神としても知られ、10月には大祭が、2月には火まつりが行われます。

りりしい軍人さんが写ってますね。雰囲気からすると将校さんでしょうか。

 

29)浜松城

家康や水野忠邦ゆかりの城です。

明治維新以後、城郭は壊され荒廃していましたが、1958年に復興された鉄筋コンクリートの模擬天守で、野面積みの石垣が有名です。一部を平成5(1993)年に修復してはいるものの、その多くは、元亀元(1558)年頃の築城当時のままです。

周辺の様子から1960年から1970年代と推測され、この当時、僕も何度か遠足で行きました。近年はこの前に門が立てられましたね。